清心丹と人魚のあゆみ

清心丹と人魚のあゆみ

清心丹と人魚のあゆみ

人魚を商標

清心丹が商標に「人魚」を用いている事は皆様も既にご存知の事と思います。
さて皆様は人魚と聞いて何を連想するでしょうか?ドイツの「ローレライ」やアンデルセン童話「人魚姫」等、多くの方は西洋の人魚伝説が浮かぶのではないかと思います。
しかし四方を海に囲まれた日本にも数多くの人魚の言い伝えがあります。
中でも有名なのが八百比丘尼の物語(人魚の肉を食べた娘が長く生き続け最後は尼僧になり諸国を巡ったという秘話)です。今でもこれにまつわる仏塔などが各地に残っており人魚が「不老不死」「無病息災」のシンボルだったことを伝えています。
私共清心丹ではこうした日本古来の伝承に基づき人魚を商標とし、現在まで歩んで参りました。

明治

江戸・享和年間に創業した髙木與兵衛薬舗は明治に入ると自由化の波に乗り「清婦湯」や期待の新製品「清心丹」の全国的な拡販に乗り出します。人魚を最初に取り入れたのもこの頃でした。まずは本舗の屋根看板に木製の人魚像を取り付けた事から始まったようです。
そして明治17年に公的な商標制度が確立するといち早く人魚像を登録し、以後「人魚印 髙木の清心丹」と謳って偽物と区別するよう呼びかけました。この記念すべき初代の登録商標が老婆の人魚像です。

原画を見ると非常にリアルで怖ささえ感じる描写になっています。
これを商標として採用するのは現代の広告・意匠の感覚からは勇気がいりますが、これこそ明治期の民衆が抱く人魚のイメージだったのでしょう。
決して奇をてらった訳ではなく不老不死伝説を細密に描くことで邪悪を忌避する力を製品に授けようとした当主の気概が伝わってきます。
そしてさらに人魚=髙木薬舗のイメージを定着させるため明治23年には斬新な広告宣伝も試みました。
当時の大衆紙「やまと新聞」に「一夜漬人魚甘鹽」というタイトルで八百比丘尼を思わせる哀感あふれる人魚物語を連載したのです。
その結末は「髙木與兵衛の清婦湯」を推奨する台詞で締めくくられます。
読者は連載の最後に手の込んだタイアップ企画に気付く仕掛けになっていました。
医療普及が十分でない時代にあってこうした印象に残る広告の効果もあり人魚印の「清婦湯」「清心丹」は護身薬(懐中用薬)として広く支持を集めて行きました。
日清・日露戦争においては戦地に赴いた方の多くが清心丹を携帯したと伝えられています。
戦下において人魚マークはその薬効を超えた除災守護の役目も担ったのかもしれません。

大正

戦争狭間の自由な時代を迎え人魚デザインも華やかに変貌して行きました。表情・手・髪の表現から妖気は消えて、穏やかで女性らしい人魚となりました。
海外輸出が図られた時期という事もありこうした西洋風人魚像が登場したと思われます。
細部まで工夫が光るこれらのデザインは主に製品の封緘(バージンシール)に使われていました。

昭和

ロングセラーとなった清心丹のパッケージには様々な人魚デザインが存在しますが晩年に使用されていたのがこの人魚像です。
弁天様を思わせる和風の整った顔立ちが印象的です。
太平洋戦争を経て昭和後期まで長く愛されたこの人魚も旧清心丹の製造販売終了をもって一旦役目を終える事になりました。

平成~令和

そして時代は平成に。現清心丹当主・髙木紀子により描かれた彩色人魚像をご覧ください。
現代的な表情が未来を感じさせるこの新生人魚を新たな登録商標として清心丹は再び歩み始めました。
新生人魚は旧清心丹の流れを組む「清心丹シレナール」や「清癒湯」などの伝統をふまえ新たに開発した製品に刻まれています。
一方200年の歴史で初めて手掛けたスキンケア製品「シレナボーテシリーズ」には新たなチャレンジを象徴するようにシンプルにデザイン化した人魚を配しています。
明るい海面に向かう人魚がシルエットで浮かび上がる美しく洗練されたパッケージになりました。
今これらを明治期の人魚像と比べると、隔世の感を禁じ得ません。
いくつもの時代を超えて多くの人々に寄り添ってきた清心丹の人魚達。
この先の歩みも皆様を更なる健康へ導くものでありたいと願っております。



東京都中央区日本橋人形町1-4-10
人形町センタービル


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