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江戸期の日本橋・元大坂町

清心丹・創業の地 〜江戸期の日本橋・元大坂町〜

江戸・日本橋の誕生と発展

日本橋人形町…。今なお江戸の情緒を感じる事が出来る都内でも数少ないエリアです。
清心丹はこの地で210余年前に創業し、今日まで他所に移ることなく事業を続けて参りました。
今回は私たちが生まれ育った日本橋・人形町の成り立ちと清心丹創業時のお話です。

時は1603年、徳川家康は江戸に幕府を開くとさっそく城下街の整備に着手しました。
そして江戸城に直結する掘割(現日本橋川)に五街道の起点となる日本橋を架橋します。
橋周辺は商業拠点とする振興策がとられました。
しかし新開地の江戸にはまだ力のある商人がおらず諸国から地代免除で出店を募りました。
この好条件に京や堺、近江と言った西国の商人が続々と日本橋に集ってきます。
やがて幕府のもくろ見通り橋を中心に大きな商家が並ぶようになり、さらに魚河岸や様々な娯楽施設も加わり江戸一の繁華街が形成されて行きました。

江戸・日本橋の誕生と発展

創業の地・元大坂町

清心丹が創業したのは江戸後期、享和元年(1801)の事です。
もともと宗家である木家のルーツは薬草の霊山として名高い近江・伊吹山にありました。
その子孫が泉州・堺に出て薬種商いを修行し江戸開府後に東へ移ってきました。
一族は数代かけて江戸に根付き享和元年、初代 高木與兵衛により薬種問屋「木薬舗」の開業に至りました。
創業の地は江戸元大坂町。日本橋北詰から東に6丁あまり(約700m)、現在の日本橋人形町1丁目です。
江戸期の人形町界隈は江戸歌舞伎をはじめ様々な見世物の小屋が並び江戸一の娯楽街として賑わっておりました。
歌舞伎の大小屋 堺町の「中村座」、葺屋町の「市村座」、それを囲むように芝居茶屋が並び人並み絶えぬ賑わいだったと伝えられます。また歌舞伎より安価で見られる人形あやつり芝居も登場し人気を博していました。
これが今の人形町と言う町名につながっています。
そして賑わいのもう一つの要因となっていたのが幕府公認の遊廓「元吉原」です。
江戸開府間もない1813年、日本橋東方のまだ葦(よし)の生える湿地に幕府の肝いりで「葦原(よしはら)」遊廓が造られました。後に縁起を担いで「吉」の字をあてるようになります。大層にぎわったようですが明暦の大火(1657年)で焼失、浅草日本堤(新吉原)へ移転しました。
清心丹創業時、元吉原は既にこの界隈を去った後でしたが、創業同年この地に「銀座」がやってきました。
「 銀座=人形町?」と思う方は多いでしょう。銀座とは地名ではなく銀貨製造所の別名です。港湾に近い新両替町(現在の銀座地区)にあった銀座が贈収賄事件を機に1801年、この地に移ってきたのです。
蛎殻銀座と呼びばれたその場所はまさに清心丹のお隣でした。近隣の商家はこの銀座移転を街に新たな格式が加わる出来事として大いに歓迎したものと思われます。

創業の地・元大坂町

幕末も近い安政六年(1859)の江戸切絵図で元大坂町と周辺の位置関係を確認してみます。
芝居小屋街のB街区旧吉原の賑わいを継ぐC街区、そして南隣に蛎殻銀座、堀留の掘割2本を隔てて魚河岸街のA街区、その向こうに日本橋。それぞれ特徴ある街区に囲まれるように元大阪町が位置していた事がわかります。
日本橋方面から向かうと二つの橋。遊びにきた者が芝居へ行くか元吉原かで悩んだのが思案橋、元吉原を作った親方(親父)が架けたのが親父橋です。
これらの橋を渡り道なりに進むとそこが元大坂町でした。
文字通り人・物・金が行きかう賑わいの十字路。
繁華へ向かう大勢の人々が木薬舗の前を往来する様子が目に浮かぶようです。

明治以降の元大坂町界隈

明治以降の元大坂町界隈

長く続いた徳川の世から明治新時代に。江戸は東京となり元大坂界隈も変わって行きました。
歌舞伎の江戸二座は浅草へ去り、蛎殻銀座は新政府の造幣局に機能を移します。それでも多くの老舗商家はこの街でのれんを繋いで行きました。

明治5年に水天宮が青山から遷座、翌6年には後に明治座となる喜昇座が開場、明治9年には米穀取引所が設立され同時に多くの仲買人がこの付近に開業しました。
こうした活気が芳町の花街に隆盛をもたらしこの界隈の賑わいが絶える事はありませんでした。
大正期の元大阪周辺地図を見るとこの頃まで江戸の町割り・堀割りや町名が健在だったことがわかります。
その後、関東大震災を境に道路・街区の整備が進み昭和8年の住所表記変更を最後に江戸期からの歴史ある「元大坂町」の町名は姿を消しました。

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