清心丹の歴史

清心丹の歴史

1801年からの歴史

1801年~幕末

清心丹の歴史

1801年(享和元年) 初代 髙木與兵衛が、江戸・日本橋の元大坂町に薬種問屋を開業致しました。

1824年(文政7年)江戸の名物・名店紹介本「江戸買物独案内」に創業時の看板商品 婦人要薬「清婦湯」が掲載されています。当主は屋号の「堺屋」を名乗っておりました。

▸「清心丹・創業の地 ~江戸期の日本橋・元大坂町~」についての詳細はこちら

明治初期

清心丹の歴史

江戸の面影を残す店舗風景。
人魚の商標を高く掲げた当時の様子が「東京自慢名物会」に描かれています。
貼交絵の左側上部には、清心丹店舗に添えて一句「皆人か 三清堂も妙薬の ききめに名さえ 髙木評判」と詠まれています。

明治8年発売の懐中用薬 清心丹が当り活気を呈す店頭の様子です。
三清堂は清心丹・清婦湯・清婦水の三薬から名づけた当時の屋号。
当主の姓と高き評判をかけています。
右下は「よし町(芳町)・丁子屋の美人画」、左下は「かきから町(蛎殻町)・水天宮模様」とご近所の名物が並べられています。
■資料名
東京自慢名物会(東京都立中央図書館特別文庫室所蔵)

▸懐中要薬「清心丹」についての詳細はこちら

明治中期

清心丹の歴史

明治22年 法令により薬局と製薬者(今で言うメーカー)が明確に規定されました。
この時から髙木薬舗は「清心丹薬局」と「清心丹等の製造本舗」の両業態を併せ持つ体制となり、これが現在まで続いております。

中央の人物はこの時期に家督を継いでいた五代目髙木與兵衛夫妻と思われます。
「清心丹」は胃腸の懐中薬として明治から昭和に至るまで全国的に知られた名薬でした。

明治後期

清心丹の歴史

明治40年、大隈重信等の編纂により『開国五十年史』が公刊されました。
明治維新以降の憲法、外交、財政、陸海軍、政党、法制、逓信、鉄道、海運、教育、医学、文学、音楽、農林水産、鉱工業、銀行、貿易などの歩みが詳細に綴られています。
巻末には各産業の代表的企業・商舗が紹介されており清心丹も取り上げられています。

■資料名
開国五十年史
(東京国立博物館資料館 所蔵)

大正~昭和初期

大正末から昭和初期の本舗店頭、および執務の風景です。
関東大震災を経て店舗は装飾の美しい洋風ファサードになりました。
海外輸出も順調で好景気の活気が伝わってきます。
大正期の住所表記は東京市日本橋区元大坂町八番地でした。

昭和20年~30年

清心丹の歴史

太平洋戦争も終わり清心丹の製造が再び盛んになった頃の様子です。
左手は戦禍を逃れた店舗、手前が工場で、夜は壁面がライトアップされました。
住所表記は東京都中央区日本橋芳町一丁目八番地となりました。

その後、良質な原料の調達が難しくなった事もあり昭和後期に全ての製造を終了しました。
これらの建物も改築され店舗1階が人形町郵便局、角面が清心丹薬局となります。

昭和50年代

清心丹の歴史

1980年代初頭の清心丹薬局です。
写真中央に移っているのが八代目髙木弘也です。
地域密着を旨とし、近隣の医療機関と連携をはかりながら地元に奉仕する姿勢は現在の従業員にも引き継がれております。

昭和60年代

清心丹の歴史

1994年に人形町センタービルが竣工する以前の1985年代(昭和60年代)の写真です。
手前の人形町郵便局では、七代目 髙木 與兵衛(薬剤師、兵役しばらく後、薬局長引退)が、郵便局長を務めておりました。

▸「昭和の清心丹」についての詳細はこちら

そして平成から令和へ

平成6年 人形町センタービルが落成。
平成21年には清心丹薬局、清心丹本社事務所をリニュアル、二階には貸し会議室日本橋清心丹をオープンし現在に至っております。
200余年の伝統を受け継ぎ、これからも広く健康支援の実現に努めて参ります。

懐かしの清心丹

▸「清心丹と人魚のあゆみ」についての詳細はこちら



東京都中央区日本橋人形町1-4-10
人形町センタービル


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